舌の上でゆっくりとチョコレートが溶け出していく。濃厚なカカオの風味が口一杯に広まった。

砂糖のごまかしが効かないその味は、カカオ豆本来の良し悪しがはっきりと判る。

濃厚だが、どこかさっぱりとした切れの良い苦味はとても上品な味わいで、ただ甘いだけのチョコレートとは明らかに違っていた。

軽く歯を立ててみる。

柔らかく静かに崩れていく表面。中から円やかな刺激の液体が零れ出てきた。

ビターなカカオに負けない、芳醇なアルコールの香り。

鼻腔に広がる独特の香りは、決してカカオの魅力を損なわせるものではなかった。

渾然と溶け合って、相乗的に魅力を高め合っている。

なるほど、確かに美味いな、と感心した。



でも・・・、それだけじゃない。まだ、何かが残っていた。

個性的な風味に押されがちだが、淡く、微かに・・・、何かがはっきりと見え隠れしている。

これは、まるで・・・、柔らかな花の香り。そう、まるでこれは――






「・・・桜?」






サクラの顔がパッと輝いた。

途端に周りの景色が、一瞬の内に切り替わる。



サァァァァ――



吹き抜ける風が、柔らかく暖かい。

アカデミーの裏庭に居たはずなのに、眼前には見事なまでの満開の桜が大きく枝を広げていた。

重そうに枝垂れた花房が、すぐ側に佇むサクラを覆い隠さんばかりに包み込み、雪のような花片を惜しげもなく舞い散らしている。

嬉しそうに微笑むサクラの肩や髪に淡い欠片が幾重にも降り積もり、また風に流されて何処へと舞っていった。



「・・・これって、あの時の――

「カカシ先生、憶えていてくれたんだ!」



一段と笑顔が光り輝いた。

それに併せて、桜の枝が大きくしなる。

次々と溢れ出る薄紅色の桜の花びら。

風に舞い、風に散り、風に流され静かに頭上から降り注いでは、また勢いを得て大きく空へ舞い上がる。



ああ、そうだ。間違いない。

これは去年の――サクラの誕生日の光景だ。














里山の桜の木々が満開に咲き誇り、酒飲みの理由を探していた連中がせっかくだからと手の空いてる忍達を誘って、

酒やら、つまみやら、弁当やらを各自持ち寄っては、突然の花見の宴と相成った。

たまたま、ぽっかりとスケジュールの空いてた俺も当然の如く駆り出され、最初は渋々と付き合い程度に参加していたのだが、

久しぶりの桜の下の風流な宴会に、思いの外我を忘れて浮かれ騒ぎ、気が付くと十分に座を愉しんでいた。

むさ苦しい上忍中忍連中が多数を占める中、座を華やげるように若いくの一達がちらほらと混ざっている。

その中にサクラもいた。

折しもその日はサクラの誕生日で、仲の良い友人と一緒に帰ろうとしたところを、「それじゃみんなで誕生日祝いだ」と、

なんでも酒の肴にする物好きな連中に強引に引っ張ってこられたらしい。

何か予定があったかもしれないのに、嫌な顔一つせずに、ニコニコと周りの連中に気を配っては酒を注いだり、

他愛無い世間話の話し相手になったりしている。

やけにその一画が眩しく見えた。

ちょっと見ないうちに、随分と大人になったもんだ・・・。その分俺も、年取ったってことか。

少し離れた席からサクラの様子を眺め見て、つい昔の彼女を思い出し、その姿といろいろ思い比べてみては、

『時間』というものの偉大さと無常さを、改めて思い知らされた。

未来に思いを馳せ、どんどん成長していく彼女。とっくの昔に未来を見限り、静かに凋落していく自分・・・。



・・・柄にもないなと、独り笑って周りの桜に目を移す。

一瞬一瞬で姿を変えていく桜の花たち。

今が極みと咲き誇り、吹き抜ける一陣の風に、はらはら・・・と惜しげもなくその身を散らしていく。

あまりにも潔く舞い散るさまに目を奪われ、時間を忘れた。



「・・・・・・」



どれくらい眺めていただろう。気が付くと、いつの間にかサクラが席を外していた。

僅かに視線だけを彷徨わせ、彼女の居所を探り当てる。

・・・あそこか。

サクラは、座から少しだけ離れた一本の枝垂れ桜の木の下に静かに佇んでいた。

見惚れたように満開の花を仰ぎ見ている。

さわさわとした風が枝を揺すり、小雪のような花片を、幾つも幾つも彼女の周りに漂わせた。

そっと両手を差し出し、静かにそれを受け取ろうとするサクラ。

まるで、桜の木から抜け出た桜の精が、愛しげに花びらと戯れている絵のようだった。



ヒュゥゥー・・・



突然、強い風が吹き抜けた。

白い雪が、あっという間にサクラの全身を覆い隠す。

一瞬、風に吹かれてサクラまでもが消え去ってしまうような錯覚を覚えた。

幸い、座は乱れ始めていて、一人二人抜け出たとしても誰にも咎められそうにない。

スッと音もなくサクラの隣に立ち並ぶと、髪に絡まった数枚の花片を丁寧に取り除いた。



「あっ・・・、カカシ先生」



驚いたような表情の透き通った瞳が、嬉しそうに見上げてくる。浮かべられた柔らかな笑みが、今にも零れ落ちそうだった。

ほんのりと上気した頬が桜色に染まっていて、日の光の中でキラキラと輝いていた。

綺麗だな・・・。素直にそう思った。

・・・やっぱりこの子は桜の精だ。



「どうしたのよ?こんな所に一人で・・・」

「うん。この桜があまりにも綺麗だったからね、近くでもっとよく見てみたいなぁって・・・」



愛しそうに木の幹を撫で上げ、目の前に幾重にも垂れ下がった枝にも慈しむように指を伸ばしていく。

・・・こんな細い指だったんだ。

今まで当たり前のように見ていて、全然気付かなかった。

サクラを真似て枝に指を伸ばす。偶然を装って、さり気なく指先を近付けてみた。



「すごいねー!まるで桜の花の滝みたい・・・」

「滝かぁ・・・。なるほどね、うん。滝のようにも見えるな、確かに・・・」

「えー、じゃ、カカシ先生には何に見えるの?」

「うーん・・・。暖簾」

「ノ、ノレン・・・?」



「何それ、全然風流じゃない」と、口を尖らせ、サクラが脹れ出した。

呆れたように腰に手を当て、一応上目遣いに俺を睨み付けているが、瞳の色は可笑しそうに優しく笑っている。

詰られているというよりも、より一層仲良くじゃれ合っているような雰囲気で。

なぜだろうな。心がウキウキと軽く弾んできた。



「アハハ、ごめんなー。どうも俺、そういう雅な趣きとは、かなり懸け離れた生活を送っているからさぁ、上手く言葉が出てこなくて・・・」

「フフフ、しょうがないよねー。カカシ先生だもんねー」

「どういう意味よ、それ・・・」

「ウフフフ・・・、だから何でもないってばー」



目の前をゆらゆらと、花の小枝が優しく揺らぐ。

その中でも、一際鈴なりに美しく咲き誇っている一枝を見付けた。

咲き始めて間もないらしく、まだ花がしっかりと付いている。

色鮮やかに傷一つなく、凛と咲き誇る花達は、繊細だけれども力強かった。

まるでサクラみたいだな・・・。

どんなに強い風が吹いてこようとも、しっかりと風を受け止め、そして流されない。

子供から少女へ、そしてやがては大人の女性へ・・・と、これからも綺麗に咲き続けるんだろう。

今は、子供でもなく大人でもない、そして、子供でもあり大人でもある、境界線上の艶やかな一輪の花。

移り行くからこそ花は美しい。

蕾から花開き、やがて満開へ・・・。

だが、この瞬間の眩しい姿を、永遠に閉じ込めておきたいと、強く思った。



「・・・桜の枝を折るのは愚かしい行為って判っているけどね」



先端の近くを軽く指で挟み、微弱なチャクラを流し込む。

プツッ――

程なく小枝が焼き切られ、指先には小さな花の塊が残った。

・・・ごめんな。俺の我儘で時間を切り取られ、この先誰の眼にも触れる事のなくなった小さな花達。

そっと顔を近付けると、優しく懐かしい匂いがした。



「綺麗ね・・・」



愚かな行為を咎めることなく、静かに見守るようにサクラが微笑んでいる。

何だか悪戯が見つかった子供のようにばつが悪くなって、ハハハ・・・と思わず、誤魔化し笑いを返した。



「・・・雑菌が入り込まないように断面は焼いておいたから、この木にダメージはないと思う。・・・あそこにいるみんなには内緒だぞ?」

「内緒・・・?」



反対側の人差し指を口に当て、悪戯っぽく笑いながら桜の小枝をサクラに差し出した。



 「・・・今日の日の、記念に――



凛と美しく、健気に咲き誇る『さくら』に魅せられ、心の中に永遠に焼き付けた記念に――












「あの時、カカシ先生から『内緒だぞ』って桜を贈ってもらった事が、とにかく嬉しくて嬉しくて・・・、

 ずっとこの桜を記念に残しておきたいって思って、家に帰って直ぐにお酒に漬け込んでみたの。

 それでもしも桜のお酒が出来上がったら、真っ先にカカシ先生に味わってもらいたいって思って・・・」

「へー・・・。じゃ、やっぱりあの時の桜なんだ。これ・・・」

「カカシ先生が憶えていてくれて、本当に良かった・・・」



サクラの周りの花びらが、風に乗って嬉しそうに漂い続けている。

中心に居るサクラも、眩しいほど艶やかな笑顔を浮かべていた。

・・・サクラも残したいと思ってくれたのか。あの時の桜を。

俺は無残にただ手折っただけで、その全てを手に入れたつもりでいたけれど、サクラは形を変えて本当に残してくれたんだ・・・。



やっぱり敵わないなぁ、サクラには。

いつだって俺の想像以上の事をやってのける――



「・・・しっかし、いつの間に幻術かけたんだ?全然気付かなかった」

「えっ?ホントに?じゃ、内緒にしておくわ。フフフッ。・・・とにかく、先生が『桜』をイメージした時に発動するようにしておいたの」

「いやー、完全にやられたなぁ・・・。でも、もし俺がイメージしなかったら、どうするつもりだったんだ?」

「カカシ先生なら絶対イメージしてくれるって信じてたもん」



満足そうに目を細めて柔らかな視線を投げかけてくる少女と、満開の桜の下で静かに向き合った。

霞がかった陽射しが暖かい。

はらはらと散り続ける花片の影が、サクラの表情をどこか艶かしく幻想的に映し出していた。



「幻にしておくには、ちょっともったいない光景だな、これ・・・」

「えへへっ。傍から見たら私達って、ただぼんやりとベンチに腰掛けてるだけだもんねー」



面白そうにクルクルと踊りながら、両手を広げ、降り止まない桜色の雪をうっとりと仰ぎ続ける少女。

サクラのかけた術など、いとも簡単に解いてしまえるのだが、なぜだかそうはしたくなかった。

もう少しだけ、こうして二人しか存在しない世界を見ていたい。

空を覆い隠さんばかりの満開の桜を、もっと二人で眺めていたい・・・。



静かにサクラに歩み寄り、風に遊ぶ桜色の髪を愛しく感じながら、そっと撫で付けた。

大きく振り返り、俺を真っ直ぐに見据える真摯な眼。

サクラの形の良い唇が綺麗な弧を描き出した。

さやさやと枝がそよぐ。一片の花びらが、艶然と俺に笑いかけるサクラの口元を掠めて、どこか遠くに流されていった――



さくら さやさや・・・

      清(さや)けき 君の  

          朱の唇を 熱く惑わす・・・



・・・いつまでも、こうしてここにとどまっていたいけれど、でも、そろそろ現実に立ち戻ろうか・・・。

静かに指を伸ばし、惑わすように紅く染まった唇をそっとなぞってみた。

確かに伝わってくるサクラの熱とほのかな弾力。

うっとりと眼を伏せたサクラの顔は、もう子供のものなどではない――



何だろうな・・・。名残惜しくて堪らない。

桜が、サクラが、さくらが、さくらが・・・溢れ出して止まらない。

これも術の織り成す効果なのか・・・? だとしたら・・・、見事に嵌った俺は、上忍の面目丸潰れだよな・・・。

最後の最後まで・・・、サクラにやられっ放しだ・・・。



軽く目を閉じて、一瞬だけチャクラの流れを乱した。



「解っ!」



ゴゴゴゴォォォ・・・



最後に、一際大きな風が、空に向かって吹き抜けていった。

満開の桜が大きくうねり、しなる。

一斉に乱舞する花びら。

地表に落ちた花片が空中高く舞い上がる。

圧倒されるほどの鮮やかな桜吹雪が大きく湧き起こり、静かに佇むサクラの姿を完全に隠し去っていった――












「・・・・・・」



小箱を握り締め、夢から覚めたように桜が咲き誇っていた場所に目を遣ると、

見慣れたアカデミーの風景が、当たり前のようにそこにあった。

いつの間にか日が傾き、そこかしこが茜色に染まっている。

吹き抜ける風は、やはり凍てつくような冬の風だった。



「フゥ・・・」



カラカラ・・・



残ったチョコレートがぶつかり合って乾いた音を立てている。

色鮮やかな白昼夢。

夢から覚めた途端、無性にあの桜の木が・・・、桜の下で幽玄に花と戯れるサクラが恋しくなった。



「・・・ひょっとして、来年もまたサクラの手伝いをしたら、これと同じの作ってもらえるのかなぁ?」

「そうね・・・。先生がまた桜の花をプレゼントしてくれれば・・・」

「了ー解!」



そんなの、お安い御用だ。あと一月もしたら、また桜の蕾が綻び出す。

薄紅色の桜の精が舞い降りる。気高いほどに美しく舞い踊る。



「今年は二人で――

「え・・・?」

「二人だけで見に行ってみようか?」



あの桜を・・・。青空の下、はらはらと舞い続ける淡雪のような桜を、

抑え難い情念のように激しく立ち昇る桜吹雪を、一緒に見に行こう。



「・・・みんなには『内緒』ね?」

「そう。みんなには『内緒』!」



サクラが人差し指を唇に宛った。いつかの俺みたいに。

北風に晒されて真っ赤になった頬が、夕焼け色に染まっている。

俺も負けじと人差し指を宛がった。



二人だけの約束。二人だけの秘密。

ワクワクと心躍る、とびっきりの約束に、サクラがクスッと幸せそうに含羞んだ。

俺の隣で、一足先に桜の花が咲き綻ぶ。どこまでも可憐に、そして限りなく艶やかに・・・。







―― それは、俺の心の中に、悪戯好きな桜の精が魔法をかけて住み着いた日の出来事。





カラカラ・・・

手の中の魔法の小箱が、楽しそうに揺れていた。